立花隆『脳を鍛える』

以前読んだ立花隆の「脳を鍛える」にあったのですが、20才前後の青年はよく、「正確さと言う病」にかかるんだそうです。

原典は知り合いに貸しちゃって手許にないのでちょっと間違ってるかも知れません。そう彼は立花のこの全講義を東大の知りあいに借りたテープで聴いたそうで、オレなんかより一層役に立ててる事でしょう。テープで講義を聴いて勉強できるってゆう才能は無かしっからオレには信じがたいです。話を戻して。この「正確さと言う病」にかかった青年は、何事であっても、確実に立証できる正確さが無いとその事に対して価値観を見いだせなくなります。そして自分が書く話す文章もあらゆる方面からの正確さを期し全てのツッコミに釈明できるようにしちゃうので、ついには何だか意味もないような文章になっちゃうのだそうです。


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コレはあくまで20才前後の話でオレもゆわれてみればそんな経験もあった気がするんですが、話はそうでなくてオレの最近の「ヒト嫌い」はこの病気に似ているトコロがあるなぁ、と思ったのです。でもソレは「正確さという病」では勿論なくて(この日記読んでりゃ分かる)、敢えて言えば「意味という病」、でしょうか。オレにとって「意味のない」と思われるムダ話とかが全て億劫になってしまっています。

この場合の「意味がある」とゆうのは、その場の楽しみとか気晴らしとかに使われる話題ではなく、「その話題によって少しでも自分が進歩できるか」が判断基準なワケです。この「自分が」に注目。相手はどーだってイイんです。コレで友達が多いワケがないんですね。

さらに考えたらオレは別にこの病気にかかっていない普段の時でもこの「意味を求める」傾向が多分にあって、その許容範囲がすげぇ広がってるからセーフ、なダケのような気もします。オレは普段はその許容範囲がとても広いので(「どんなツマらん事でも知っていた方が良い」)だから他のヒトにはあまり気付かれないんだと思います。この自分中心の判断基準、自己中な性格について。

人間関係をスムーズにするのは、フツーの社会生活をウマく営んでいこうとするその先は、「意味のない」会話が世界の殆どを占めていて、コレをマスターせずにはにっちもさっちも先には進まないんです。ソレは分かってるのです。以前知り合いにもよく言われてました。人間関係は「どーでもイイような事が一番重要なんだヨ」って。

今まではその許容範囲の広さで何とか取り繕ってきたオレでしたが、うまくフォローしバックアップしてくれる彼女を失ってから、この「病気」をうまくカモフラージュできるのでしょうか。ソレが心配です。一時的な「正確さと言う病」に比べてオレの病は、慢性化する可能性がとても大きいのじゃないかと。

第一「意味がある」「ない」ってのもその時その時のオレの興味の範囲でしか無いワケで。つまりタダのワガママなんですけどね。ナニ偉そうに書いてるんだか。

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